(本稿は,『日本経済新聞』2007年6月4日朝刊,「経済教室」に掲載された。)

研究進む「最適」所得税制

岩本 康志
 経済の活力を損なわず,所得再分配も進むような最適な所得税制に関する研究が進んでいる。最近では最高所得階層の税率は50%超が望ましいという示唆も出ている。日本でも税制にどう所得が反応するかの実証研究を進展させて,望ましい税制についての議論を深める必要がある。

 所得税の体系としてどんな制度が最も望ましいのか。最適な所得税に関する研究は長らく経済学者の関心を呼んできた。特に格差の問題が広く議論されている中では,税による再分配を通じた所得格差の是正に対するまなざしも熱くなる。
 所得税による再分配では,人並み以上の努力をして高い所得を得た人と,たまたま能力や運に恵まれて高所得を得た人が区別されない。このため,能力や運による格差を是正したいと考えても,努力していた人たちの意欲がそがれてしまうことが避けられず,経済の効率が低下する。

税と社会保障は一体の議論必要

 平等と効率はこのように相反する関係にあることが,所得再分配の抱える問題である。このバランスをどうとって,どんな所得再分配が望ましいと考えるかは,個人の価値観(価値判断)に依存する。したがって,ある価値判断基準の下での最適な税体系は考えられるが,唯一の望ましい政策を経済学が客観的に示すことはできない。
 できるのは,さまざまな価値観について,それぞれの最適な税体系をメニューとして示し,どれを選択するか,国民の意思に委ねることである。また,どんな価値観に照らしても望ましくないものを選択肢から除外できれば,政策議論に大いに助けになる。今回は,このような問題を考える最適所得税の研究動向を紹介して,所得再分配や最適所得税に関する経済学の貢献を考えていこう。
 所得再分配はすべての所得階層を一体的に考えるので,政策現場でわかれて議論されている生活保護制度と所得税は,本来,同時に制度設計されなければならない。また,消費税も同時に考えるべきであり,所得再分配をともなう社会保険制度も考慮の対象になる。
 所得税の性格は各所得での税率(限界税率)で規定される。日本の所得税では,195万円までは5%,それを超えて330万円までの部分が10%というように段階的に税率が上がる。
 ある所得階層の税率引き上げには3つの影響がある。第1は,労働意欲がそがれ節税行動を誘発するという2つの経路を通じ,その階層の所得が減少することである。第2は,それ以上の所得階層でも,変更された税率が適用される所得の部分からの税額が増えることである。先の例でいえば,195万円までの税率が1%上がれば,所得400万円の人も自動的に1万9500円増税になる。第3に,関係する個人の効用(満足度)が変化して,社会的厚生(経済的豊かさ)に影響を与えることだ。三つの効果のバランスがとれた税率をもつ所得税体系が最適所得税となる。
 1971年にケンブリッジ大学のマーリース名誉教授(96年にノーベル経済学賞を受賞)は,望ましい税制の満たす条件を解明,最適所得税の研究分野を開拓した。彼は数値計算も行って,「税率は所得によらずほぼ一定で20%台」と結論づけた。当時は高所得者の税率が非常に高い累進課税が一般的だったので,この結果は驚きをもって迎えられた。
 この論理構造は非常に複雑で,意味のある提言に結びつきにくく,実際の政策形成に直接に影響を与えたとはいいがたい。とはいえ,課税ベースを広げ,税率を引き下げることが80年代以降の税制改革の世界的な潮流となり,マーリース教授の示唆した方向に進んでいったといえる。

結論を左右する所得分布の想定

 しかし,98年のマサチューセッツ工科大学のダイヤモンド教授,2001年のカリフォルニア大学バークレー校のサエズ教授の貢献で,理論は新たな展開を見せる。両教授は,所得分布の形状,税率に対する所得の反応(弾性値),価値判断という3つの要素を数値化した変数を用い,非常に簡明な形で最適税率を表現することに成功した。
 価値判断以外の変数には実証研究で関心をもたれているものを用い,研究成果が最適税制の議論により密接に結びついているのも特徴だ。そして米国の実証研究を参考にした両教授の計算では,望ましい最高税率が50%を超えるという,マーリース教授の示唆とは対照的な結果が導かれた。
 所得分配に対する価値観の差異は主に,低所得者の厚生をどの程度重視するかにある。従って,低所得者の税制の議論は所得分配の価値観に大きく依存する。一方,高所得者になるほど,その経済状態にウエートが置かれなくなるので,高所得者の税制は価値観にあまり左右されず,この所得階層からの税収を最大化する税率に近づく。そこで以下では最高所得階層の税率に関心をしぼり,研究の進展とわが国での課題を見てみよう。
 マーリース教授の研究から約30年を経て,最高税率に関する見解が変わった大きな理由は,数値計算の際の所得分布の想定の違いにあった。マーリース教授は,現実の所得分布よりも高所得者層の人口が小さくなる分布を用いた。一方ダイヤモンド教授とサエズ教授は,個票データを用いることで,これを現実の所得分布に近いものに置き換えることができた。同じ税率を引き上げるのでも,高所得者の人口が多いと,高所得層からの税収が増えることになる。このため,望ましい税率が高くなったのである。

現行水準妥当か研究・議論せよ

 こうした計算には所得分布全体の形状を知る必要があり,よく議論されるジニ係数や相対的貧困率のような集約された指標では不十分だ。所得分配と税制の研究者間の共同作業が望まれる。
 5月14日の経済教室で大阪大学の大竹文雄教授が紹介したように,税務統計を用いた高所得者の集中度に関する研究は現在,各国で行われている。日本については,ノースウエスタン大学の森口千晶助教授とサエズ教授の研究があり,日本と諸外国の動向を比較することが可能である。80年代以降に米国,英国,カナダといった英語圏の国で高所得者の集中度が高まったが,欧州大陸諸国や日本ではそのような傾向は見られない。英語圏での変化が起こる前での分布の状況は,日本も含めて似通っている。
 税制に対する所得の反応についての研究も,80年代以降の税制改革の経験から学ぶ形で進展した。米国では,税率が低下する一方で,高所得者の所得が伸びていった。ところが,税制の変更がないときでも所得の伸びが観察されているので,税制改革のみで所得が上昇すると結論づけるのは適当でない。税制変更に対する反応のみをより注意深く計測した研究では,弾性値はもっと小さく測定され,所得の伸びは税制改革以外の要因から生じた部分が大きいこともわかってきた。
 所得の反応に対する理解は深まっているが,現状ではある程度の幅をもって考える必要がある。所得の反応度は税率に大きく影響を与える。サエズ教授の計算では,低い弾性値の想定では最高税率は70%弱,高い弾性値では50%強と,20ポイント程度の幅をもつ。
 日本でも80年代以降に最高税率が引き下げられたが,高所得者の所得はあまり伸びず,所得の反応度が大きくないことがうかがわれる。日本ではより詳細な実証研究の蓄積が浅く,今後の発展が望まれるが,現在のところ,サエズ教授の想定の低い弾性値と符合する結果が報告されている。すなわち,最近の男性中核労働者の労働供給に関する研究では,一橋大学の林正義准教授,別所俊一郎講師によって,低い弾性値が求められている。京都産業大学の八塩裕之講師によると,家族従業員への所得分散など節税手段を持つと考えられる事業所得者の課税所得は,税率が低下しても大きく変化しなかった。
 現行の日本の所得税と住民税を合わせた最高税率は50%である。新世代の最適所得税の議論と照らし合わせて現行水準が妥当かどうか,実証研究を進めて議論を深める必要がありそうだ。

(上記事に関する日経ネットPLUS掲載原稿)

 「経済教室」(6月4日付)では,最適所得税の研究動向を紹介して,わが国への含意について考察しました。前回に大竹文雄教授が格差の議論を取り上げましたので,それを是正する手段について,続けて考えてみることを意図しています。
 ここで伝えたかったことは,
(1)再分配は価値判断に左右されますが,客観的な分析がまったく不可能なわけではなく,税制のあるべき姿の範囲を抑えることに大きく貢献する
(2)税制と社会保障は一体的に考える必要がある
(3)今世紀に入るところで,最高税率に対する認識が大きく変わったが,わが国の議論ではまだ十分に普及していない
等です。
 最初に活字になった私の論文(本間正明教授・跡田直澄教授・大竹教授との共著である「直間比率の経済分析」)はまさに最適所得税の研究です。今回の原稿はそれを否定する作業になりますが,科学の発展のためにはやむを得ません。
 その他,原稿の補足説明です。
(1)格差の原因として列挙した努力,能力,運について厳密に説明していませんが,努力は経済活動におけるわれわれの行動,能力は経済活動をスタートさせる前に存在する差,運はスタート時点ではわからないが,活動途中で結果の途中に影響を与える外的要因と区別されます。このように定義された運については,保険によるリスク分散で格差是正を図ることが考えられます。経済活動のスタートは就業時ですので,教育の結果は能力に反映されると考えられます。したがって,教育による能力の底上げも格差是正につながります。
 そうしたことでも調整されない能力,運に対する格差是正の態度についての標準的な理解を紹介(紙数の都合で駆け足になりました)していますが,きちんと常識になっているかどうか。これに関する議論が起こるかもしれません。
(2)今回紹介したダイヤモンド教授,サエズ教授の研究は6年以上前のものですが,わが国への適用がまだされていないので,紹介してみました。
 わが国の所得税のあり方については,結論ではなく,宿題を提示した格好です。せっかく政府税制調査会に調査分析部会が設けられたことですから,ここで出された宿題をこなしていただくことを希望します。
(3)前回の大竹教授の寄稿では,わが国では中位以下の所得で格差が拡大していることが指摘されています。この階層の税制が重要な課題となることは認識していますが,より複雑な議論になるので,白紙から1回の紙数でまとめることは無理だと判断しました。別の機会に回したいと思います。ローマは一日にして成らず。今回の拙稿の議論を足がかりに,考察を加えることが必要です。

 なお,原稿でご紹介した研究の原典をご紹介しておきます。
Diamond, Peter A. (1998), “Optimal Income Taxation: An Example with a U-Shaped Pattern of Optimal Marginal Tax Rates,” American Economic Review, Vol. 88, No. 1, March, pp. 83-95.
林正義・別所俊一郎(2004),「累進所得税の社会的限界費用:個票テータを用いた試算」,内閣府経済社会総合研究所ディカッションペーパーNo.113。
Mirrlees, J. A. (1971), “An Exploration in the Theory of Optimum Income Taxation,” Review of Economic Studies, Vol. 38, No. 4, April, pp. 175-208.
Moriguchi Chiaki and Emmanuel Saez (2006), “The Evolution of Income Concentration in Japan, 1986-2002: Evidence from Income Tax Statistics,” NBER Working Paper No. 12558.
Saez, Emmanuel (2001), “Using Elasticities to Derive Optimal Income Tax Rates,” Review of Economic Studies, Vol. 68, No. 1, January, pp. 205-229.
八塩裕之(2005),「所得税の限界税率変化が課税所得に与える影響:日本の事業所得者のケース」,財務省財務政策総合研究所ディスカッションペーパーNo.05A-04


(注) 最適所得税を導出する数学的な議論は,こちらで説明しています。


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