海外では政策立案に先立って、社会実験を実施し、政策効果を客観的に測定する手法が根付いている。日本で普及していないのは、政府は間違いを犯さないという前提に立っているからだ。よりよい政策が選択できるよう手助けするためにも、日本でも社会実験導入を拡大すべきだろう。 |
小泉純一郎政権のもとで構造改革が加速した一方で、最近、その「影」の部分に焦点をあてた議論も目立っている。その場合でも、元に戻すのではなく、問題の本質を見据えた新たな制度改革が必要になるだろう。一般に、既得権益を享受している抵抗勢力が存在することが、改革を遅らせる原因だといわれてきた。しかしそればかりではない。改革の結果に関する評価について、改革推進派と反対派の見解が食い違い、改革に踏み出せず現状維持になってしまうケースも少なくない。
「負の所得税」は労働意欲そぐか
海外では、新しい施策の導入に先立ち、範囲や時期を区切って試行し、効果を科学的・客観的に検証する「社会実験」の手法がよくとられる。今回はこれが政策立案にどう役立つかを、所得保障と医療保険の分野の実例を通して見ていこう。
所得保障の分野で有名なのは負の所得税に関する社会実験だ。M・フリードマンが提唱した低所得者層におカネを給付する負の所得税には、生活保護制度のもつ労働意欲阻害効果を緩和する働きがある。生活保護費は最低生活費と所得の差額分だけ支給されるため、生活保護受給者が追加的に1円稼いでも、手取り収入は増えず、生活保護受給者の労働意欲をそいでしまう。ここで課税最低限以下の人々に対し、政府から給付を行うが、給付減額幅が所得の増加分より少なくなるような負の所得税を導入すれば、働けば手取り収入が増加するので、生活保護制度より労働意欲が高まる。
大学院生の提案 連邦政府動かす
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(注)グリーンバーグ・メリーランド大学名誉教授らによる集計 |
ただし、生活保護制度から負の所得税に変えると理論的には労働意欲が低下する可能性もある。両制度の給付水準が所得ゼロの時で同じなら、所得を得た時の手取り収入は負の所得税分だけ最低生活費水準を上回る。したがって、労働時間を減らすなどしても最低生活費よりは高い収入が確保できるので、負の所得税の下で労働供給は減りかねない。
現実に相反するこの2つのどちらが強いのか。1960年代にマサチューセッツ工科大学の大学院生が連邦政府に社会実験実施を提案し、これが初めての本格的な社会実験、「ニュージャージー負の所得税実験」に結実した。この実験では、ニュージャージー州(後でペンシルベニア州が追加)に居住する約1200人の低所得者を対象に、負の所得税制度を実際に適用すると働き方がどう変化するかが調べられた。
実験の利点は多い。実験を用いず、実際の政策変更から政策の効果を推定する場合、政策変更以外の影響を除去するのは困難だ。このため、政策の介入を行う実験対象のほかに、政策の影響を受けないグループを設け、両者を比較して、効果を判定する。効果のありそうな被験者を選び実験対象にすると政策効果が過大評価されるから、実験対象の選択は無作為に行うのが基本である。
個人向けサービスを対象にした政策実験の場合、違った政策を個人に適用すれば、ひとつの実験でさまざまな政策の効果を同時に把握でき、その情報をもとにどの政策がよいか選択できる。
ニュージャージー州の実験を皮切りに所得保障政策に関連する社会実験が行われ、それらのデータを幅広い研究者が利用して、数多くの良質の実証研究が生まれた。その結果、負の所得税が低所得者の労働供給を高めることが、学界ではコンセンサスになった。
米国で、1993年に「勤労所得税額控除」(EITC)制度が拡張され、負の所得税が実質的に実現されたのもそうした背景があったからだ。わが国の現行税制では、税額控除は支払税額までに限られており、還付が生じない。これに対しEITCは、控除額が税額を上回った場合にはその分の還付が受けられるという還付型税額控除である。2人の子どもをもつ低所得者は、勤労所得の40%をEITCの還付として受け取ることができ、1ドルをかせぐとEITCと合わせて1.4ドルの手取り収入になる。仮に福祉制度の給付が勤労所得分だけ減額されても、0.4ドルの収入増が確保できるので、税率60%の負の所得税が意図するのと同じ効果を得る。現在では英国をはじめ、複数の国がEITCに類似した制度を導入している。
一方、医療保険分野では70年代に米ランド研究所の援助で行われた大規模実験が有名である。病気になっても安心して医療サービスが受けられるという保険の機能を維持しながら、モラルハザードによる無駄遣いを抑制するという相反する効果のバランスをとるには、自己負担の変化によってどれだけ医療費の使い方が変わるかを定量的に確かめる必要がある。
国民皆保険でない米国では、民間会社が様々な医療保険を販売し自己負担率も異なっている。そのデータを分析すれば、自己負担と医療費の関係がわかる。実際、自己負担率の低い保険の加入者が医療費を多く使っていることが観察できる。
選択肢を広げてよりよいものに
ただし、自己負担率が低いから医療費が多く使われるのではなく、逆に健康に不安があり、医療費をより多く使う個人がより広く保険でカバーされる契約に加入しているといったように、医療費と自己負担の因果関係が逆の可能性も十分ある。
自己負担率を上げ下げする政策の効果を正しく検証するには、自己負担率とその他のどの要因とも相関関係をもたないように設計しなければいけない。社会実験が行われる以前には、そうしたデータが得られず、医療費の反応は大きな幅をもって推定されていた。
ランド実験は米国の6地域の現役世代の住民約2000世帯に対し実験が設計した医療保険を無作為に割り当て、その後の受診行動や健康状態を調査した。この実験データで得られた医療費の反応度の推定結果は極めて信頼性が高いとされ、それをもとにした研究では、最適な自己負担率は2割から3割の間にあるという結果にほぼ収れんした。
社会実験に対しては、(1)被験者の実生活が実験台にされることに伴う倫理上の問題への留意が必要(2)実験期間が限定されると一時的な政策変更に対する反応が表れる(3)被験者が実験を意識して行動し、実験結果をゆがめかねないなどの問題点も指摘されている。逆にいうと、こうした問題の回避に注意を払った実験は、良質の情報を提供し、政策形成に役立つ成果をあげているのである。
日本での社会実験は、交通分野で普及してきているが、経済政策一般では根付いていない。そのため政策論議では、外国の政策の経験が参考にされることが多い。実験費用の節約にはなるが議論は自然に他国の追従になる。社会文化的要因が異なり、外国の結果が日本で成立しない可能性もある。またわが国特有の問題には対処できない。
日本で社会実験の活用が進まないのは、政府は間違いを犯さないという建前が強すぎるからだろう。政府や有識者が政策の実行前にその成否をすべて熟知しているかのような、現実にそぐわない無謬(むびゅう)主義では、施策の正当化が必要以上に図られ、その後の軌道修正も難しくなる。
構造改革特区の導入は、社会実験の広がりの可能性をもっていた。だが、特区推進側は最初から全国展開を既定方針と考えており、まずは特区で政策効果を科学的に検証するという態度ではなく、むしろ無謬主義にくみしていると思われる。
知識の限界を認識し、政策立案が間違う可能性も認めた上で、できる限り科学的・客観的な手法で政策の効果を確かめるという姿勢がむしろ健全であり、政策の選択肢を広げ、結果的に政策をよりよいものにする。そうした実験の貢献に対する合意が、わが国でも形成されることが望まれる。
(上記事に関する日経ネットPLUS掲載原稿)
シリーズ名となっている「トレンド」の趣旨からは,学界の最新の流行を取り上げることが求められているかもしれませんが,今回の話題である「社会実験」はすでに長い歴史をもち,外国の経済学界では確立した研究手法になっています。社会実験がわが国で根付いていないのは,政府が無謬主義の立場をとっていることにあるのではないかというのが,私の推測です。
社会実験には,政策の効果を厳密に計測するための数々の工夫が込められています。少しややこしい議論となりますが,重要なポイントは原稿で紹介しました。行政で実施される社会実験が全国展開の単なる前さばきとしてしか使われない事態にならないように,科学的・客観的な手続きを踏んで実施され,実験で得られたデータは独立の研究者が検証できるように公開されることが大切です。
社会実験を単なる新奇な手法として受け取るのではなく,政策議論の彼我の差にも思いを馳せていただければ幸いです。
また,今回の原稿では,前回の私の原稿の高所得者への最適所得税の議論と対をなして,低所得者の最適所得税(理論的には生活保護制度も統合されて扱われます)のあり方につながる部分があります。高所得者の税率は価値判断にはあまり依存しないが,実験が困難なので労働供給の反応がなかなかつかまえにくいために,税率に関する考え方の幅が生じます。これに対して,低所得者の所得保障は価値判断に大きく依存しますが,社会実験のおかげで労働供給の反応については高所得者よりもよくわかっている状態だといえます。かりに労働供給の反応もよくわからなければ,制度設計が困難な,混沌とした状況になっていたでしょう。
原稿で紹介した米国のEITCで実現する税率は60%と高率になります。子ども数が少なかったり,所得が高くなると,EITCの税額控除率が下がって,実質的な税率は60%より高くなります。所得保障制度と所得税を合わせて「限界税率」を見れば,生活保護や負の所得税の給付対象となる低所得者では非常に高く,課税される所得階層では最初は低く,所得が上がるにつれ高くなっていくというU字型のパターンとなります。最適所得税の議論では,低所得者に対する税率は,それ以上の所得階層からの税収を確保するために高くなることが容認されます。サエズ教授の研究では,低所得者の厚生を最大限に重視するロールズ的な価値判断のもとでは,望ましい所得移転制度は生活保護制度に近く,低所得者の考慮がそれよりも弱まっていくと,EITCの制度に近いものになっていくという結果が得られています。
原稿では特定の文献を引用しませんでしたが,参考となる文献をご紹介しておきます。経済学における社会実験の位置づけを展望した文献としては,
Ferber, Robert and Werner Z. Hirsch (1978), “Social Experimentation and
Economic Policy: A Survey,” Journal of Economic Literature, Vol. 16, No. 4, December, pp. 1379-1414.
が有益です。表で紹介した社会実験の統計は,
Greenberg, David, Mark Shroder and Matthew Onstott (1999), “The Social
Experiment Market,” Journal of Economic Perspectives, Vol. 13, No. 3, Summer, pp. 157-172.
に掲載されたものを集約したものです。負の所得税をめぐる議論の要領のよい解説として,
Moffit, Robert A. (2003), “The Negative Income Tax and the Evolution of
U.S. Welfare Policy,” Journal of Economic Perspectives, Vol. 17, No. 3, Summer, pp. 119-140.
があります。低所得者の労働供給への知見が最適所得税の研究にどのように生かされているかについては,
Saez, Emmanuel (2002), "Optimal Income Transfer Programs: Intensive Versus Extensive Labor Supply Responses,'' Quarterly Journal of Economics, Vol. 117, Issue 3, pp. 1039-1073
が参考になります。
ランド医療保険実験の包括的な報告は,
Newhouse, Joseph P., et al. (1993), Free for All? Lessons from the RAND Health Insurance Experiment, Cambridge, MA: Harvard University Press.
としてまとめられました。その知見をもとに,最適な自己負担率を計算する研究成果については,
Cutler, David M. and Richard J. Zeckhauser (2000), “The Anatomy of Health
Insurance,” in A. Culyer and J. Newhouse eds., Handbook of Health Economics, Vol. 1, pp. 563-643
に紹介されています。