(本稿は,『日本経済新聞』2005年10月25日朝刊,「経済教室」に掲載された。)

医療費抑制,個別策拡充を

岩本 康志
将来の医療給付費の数値目標設定にあたっては,高齢化要因などをもっと きめ細かく考慮する必要がある。また目標達成に向けては,給付範囲縮小よりも予防重視や医療の効率化などの個別抑制策の積み上げによって,社会保障の機能 低下を招かないように配慮すべきである。

 数値目標には細かな配慮必要

 将来の高齢者の医療費をどう負担するかが,医療保険の大きな問題となっている。1人当たり医療費の伸び率は,非高齢者が最近は賃金成長率とほぼ同程度な のに対し,高齢者の伸び率はそれより高く,昨年5月の厚生労働省による将来見通しでは,賃金成長率を1.1%上回って伸びると想定されている。人口が増え る高齢者の1人当たり費用が上昇する一方,財源を支えている現役世代の人口が減少することが問題を生んでいる。
 このため医療給付費を抑制するために政策目標を設定することが,今年6月の「骨太の方針2005」で示された。具体的な数値目標については,経済成長率 に高齢化要素を加味した「高齢化修正国内総生産(GDP)」を提案した経済財政諮問会議の民間議員と,ミクロ的な適正化政策の積み上げを図る厚生労働省と の間で,理念と目標値について隔たりがある。
 10月19日に公表された医療制度改革の厚労省試案によると,数値目標の隔たりは,2025年に56兆円になるとされた医療給付費を,厚労省案では 12.5%削減して49兆円に抑えるのに対して,民間議員案では25%削減して42兆円に抑える。
 数値目標の対立に目が奪われやすいが,医療費は国民の生命にかかわる重要な問題であるから,どのような目標を設定し,どのような手段で実現するのかにつ いて,本質を理解した冷静な議論が必要である。
 そこでまず指摘したいのは,両者の指標は,遠い将来の数値を仮定の積み重ねで求めたものであり,指標の根拠が盤石ではなく,不確実な要因が多々あること である。
 民間議員の提案した高齢化修正GDPは,全人口に対する65歳以上人口の増加数の割合を経済成長率に加えることで高齢化要因を考慮しているが,その算式 の根拠が説明不足である。高齢者の医療費も年齢とともに増加するので,団塊の世代が高齢者層の中で老いていけば,その分医療費も増加すると予想される。し かし,65歳以上を一括した指標では,団塊の世代が65歳になった時点で反映されるだけで,その後の加齢に伴う医療費増加は反映されないため,目標は当初 は比較的ゆるく,その後はきびしいものになる。
 先進国の中では低い水準にある日本の医療費をさらに抑制するには特段の努力が必要と思われるので,数値目標にはよりきめ細かな考慮が必要ではないか。

給付縮小より医療の効率化

 また,高齢化要因を経済成長に単純に合算している根拠が不明である。例えば高齢化要因を2倍にしたり,半分にしたりして経済成長率と足し合わせる指標を つくることもできる。なぜ高齢化修正GDPの算式が選ばれたのかの説明が必要である。例えれば,料理に塩を加える場合,どれだけの塩を加えるかは非常に大 事である。高齢化修正GDPでは,高齢化要因は加味されているが,吟味がされていない。
 マクロ的指標の意図は財政的負担能力を反映させることにあるが,ではこの負担能力をどのように考えているのか,公的部門全体の財政健全化と合致するのか が不明確である。高齢化人口の増加から社会保障への需要が高まっており,他の歳出削減と組み合わせてのやりくりがまず必要である。高齢化修正GDPがそう した議論を踏まえているとは聞かない。本来は,歳出全体の見直しを経て,社会保障費の数値目標が設定されるべきである。
 サービスの質は1人当たりの水準で左右されるので,それと関係がないマクロ経済変数に沿って医療費を抑制していくと質が低下し,悪影響をもたらすおそれ がある。厚労省案が質の低下を招かないミクロ的手段の積み重ねを目指していることは妥当であるが,その目標値には疑問点がいくつかある。
 まず,高齢者1人当たり医療費の伸び率が賃金成長率を1.1%上回る前提が最初に置かれているが,それだけの費用増加が妥当かどうかの検討が必要であろ う。これまでの高齢者医療費の伸びの原因解明や,投入に見合う成果が上がっているかの検証が重要である。筆者の試算では,仮に1人当たり費用を若年者と同 水準の伸び率に抑えられれば,2025年の医療給付費を約15%低下させることが可能である。賃金成長率並みの伸びを許容すると,現状の医療サービスの質 を下回ることはなく,質の向上を図る余地がある。
 厚労省案での医療給付費の抑制手段は,1兆円削減の短期的方策と6兆円削減の長期的方策からなる。短期的方策は高齢者の自己負担増,療養病床での食費・ 居住費の自己負担など医療保険の給付範囲縮小によるものであり,財政負担を患者負担に切り替えるだけである。それよりは,予防の重視や医療の効率化で医療 費を削減し,負担を減らす政策が望ましいだろう。
 厚労省案では,中長期的方策として,生活習慣病の予防の徹底と入院日数の短縮を図ることで医療費を抑制するとしている。これらは当然重要ではあるが,そ れ以外に医療の効率化を目指す手段が示されていないことには不満が残る。

削減目標は20%程度に

 治療技術の革新がめまぐるしいなか,2025年の医療がどうなるかを予測することは難しい。さらに現時点で効率化を図るにしても,どこに非効率が存在す るのかも明確ではない。したがって,数値目標を絶対視するよりは,目標を設定し,それを実現するための政策手段を講じるという政策のマネジメント・スタイ ルを確立することに現在の議論の意義がある。
 望ましい目標設定について筆者は以下のように考える。まず,仮に数値目標を設定した場合も,それを2025年まで金科玉条のように維持するのではなく, マネジメント・サイクルの中で蓄積された情報にしたがって目標値を見直すべきであろう。堅持すべきは医療サービスの質の低下を招かず,社会保障の機能をで きる限り損なわず,財政的に持続可能とするという理念である。
 今回の目標設定にあたっては,年齢階層別の1人当たり医療費の伸び率を賃金成長率に抑えることを基本として,それを実現するための具体的手段として厚労 省案以上のものを積み上げる方法が妥当だと考える。一方,国民負担率上昇への抵抗が強く,歳出全体の見直しの中で医療費を聖域化する余裕はないため,保険 給付の範囲を縮小する方策を追加してさらに給付費を抑制することが必要となる。したがって,厚労省試案と民間議員案の中間に位置する20%程度の給付費削 減が妥当な目標と考える。
 また,この数値が他の歳出項目の見直しと整合的かどうかは,来年議論されるべき歳入歳出の一体的改革のなかで改めて検討し,必要があれば修正を加えるも のとする。
 医療の効率化を図る手段を積み上げるために,何が無駄で何が必要かを見分ける仕組みが十分ではない現状を改善することが必要である。いまだに紙に出力さ れたレセプト(診療報酬明細書)が通用しているなど,医療費の使われ方を第三者が解析して評価するための情報基盤が整備されていない。レセプト電子化は過 去に数値目標を立てながらも遅々として進んでおらず,従来の取り組みを反省した上で,特段の取り組みが必要である。
 最後に,生命に直結する医療サービスに抑制目標を設定することに国民が不安を覚える可能性にも留意する必要がある。本来,政府が医療に介入する目的は, 低所得などの理由によって市場で選択される医療サービス消費が著しく低下することを防ぐことにある。現在の議論のように,抑制が目標となって政策の方向が 180度変わってしまうのは,現役世代が高齢者の医療費を負担する構造が医療保険に組み込まれているからである。負担能力を増せば,抑制目標は緩和され る。そのため,高齢期の医療費を現役時代の貯蓄でまかなう積立型医療保険を導入し,人口構造の変化に影響されない制度にすることも選択肢として検討に値す る。


一般向け記事へ戻る

岩本康志のホームページへ戻る

(C) 2005 Yasushi Iwamoto