(本稿は,『日本経済新聞』1996年7月4日朝刊,「経済教室」に掲載された。)

資源配分機能を重視せよ

岩本 康志

@ 財政政策の有効性の評価には,通常の乗数ではなく均衡予算乗数を用いるべきだ。通常の乗数には,持続可能でない政策を前提とし,支出拡大と減税の選択に対して誤った判断を与える,という問題点がある。 
A 均衡予算乗数の最大値は「1」であり,財政支出に民間需要拡大効果はない。乗数の低下要因として指摘されている消費性向,輸入性向の変化は,減税乗数を低下させるのであって,均衡予算乗数には影響しない。
B 財政出動の判断で重視すべきは,経済安定化機能よりも資源配分機能である。支出の費用と便益の厳密な吟味が不可欠である。

 乗数の前提は長期的に破たん
 景気対策として財政が出動すべきかどうかが,再び争点になっている。賛否どちらの論者も,財政政策の有効性を乗数効果によって議論していることでは一致している。ここではあえてこの常識に異議をとなえ,乗数は政策判断の適切な材料ではないことを論じたい。  乗数の最大の問題点は,長期的に持続可能でない政策を前提にしていることである。乗数効果で考えられている政策では,税制に関する変数を一定に保ち,財政支出を増加し,公債発行によって資金調達をする。  この政策の前提では,公債の償還財源が手当てされていないので,国民は政府に対して無限に追い貸しを続けなければならない理屈になる。  しかし,こうした政策は有限のうちに破たんし,徳政令,ハイパーインフレのような事態を招くのが,歴史の教訓である。「長期的にはわれわれは死んで」しまうはずなのだが,生きているうちに政府債務の累積は大きな問題となってしまった。現代の経済分析では,公債の償還までを考慮にいれて,財政政策を評価することが要求される。このために,支出拡大政策については,政策が持続可能となるように,支出拡大と同時に増税によって資金調達をする均衡予算拡張政策を考えている。  急いで付け加えると、この議論は公共投資を均衡予算のもとでおこなえという、財政均衡主義を主張しているのではない。公債発行による拡張政策は,  T「均衡予算拡張政策」 (支出を拡大し,同額の増税で資金調達する)  U「減税政策」 (Tと同額の減税をおこない,公債を発行する) という2つの政策を同時におこなっているものと考えて,分析することができる。 Tの増税とUの減税がちょうど相殺されて,支出拡大と公債発行のみが目に見えているのである。これら2つの政策はそれぞれ所得拡大効果をもち,財政政策の乗数は「均衡予算乗数」と「減税乗数」とが合計されたものである。Uの減税政策は,それ自体では持続不可能であり,  V「増税政策」 (将来のどこかでUによる公債発行額の元利合計を増税によって償還する) という政策と組み合わされなければならない。  増税政策の時期が定められていなければ、Vの政策の影響を現在時点で正確に評価することは困難である。だからといって、Vを無視して、TとUだけを見ることは、政策効果を過大評価することになる。  もう少しまともな方法は、近似でもいいからVの部分を考慮にいれて、景気対策を論じることである。実用可能な近似法は,UとVの効果はほぼ相殺されると考えて,財政政策の総合的な効果を、Tの「均衡予算拡張乗数」で見ることである。  くり返しになるが、この議論は財政均衡主義を主張しているのではない。公債発行による財政出動の判断においても、その政策が持続可能であるための将来の増税を近似値の形ででも考慮にいれた方が、持続可能でない通常の乗数を考えるよりも望ましいとのべているのである。

   支出増に民需拡大効果なし  公債発行による拡張政策をわざわざ2つに分解することにより,今まで見えてこなかったことがいろいろと見えてくる。  同額の公債を発行するなら,減税よりも支出拡大の方が乗数は大きいことが知られている。しかし,そうなるのは支出拡大政策のなかで減税政策を同時にやっているためであって,こういう乗数の比較は正しい政策判断には結びつかない。減税に加えて財政支出の必要があるかどうかは,均衡予算拡張政策の功罪を見て判断しなければならない。 2 財政政策が最も功を奏する局面(経済に遊休資源が存在し,民間部門に雇用されている資源に影響を与えず,公共事業をおこなえるとした場合)での,通常の乗数,均衡予算乗数,減税乗数の計算例を表に示してある。この場合,均衡予算乗数は「1」となり,それと減税乗数の和が通常の乗数となる。  もし遊休資源が存在しなければ,政府支出はすでに民間部門で使用されていた資源を代替するだけで,所得増はまったく生じない。このとき,均衡予算乗数は「0」になる。経済の遊休資源の状況により,均衡予算乗数は「0」と「1」の間に位置することになる。  均衡予算乗数は,消費性向や(輸入が可処分所得の関数である限り)輸入性向に依存しない。乗数効果の低下の理由としてこうした変数の変化が指摘されているが,それらは減税乗数の低下を意味しているのであって,均衡予算乗数には関係ない。財政政策の有効性低下をめぐる最近の議論は,いくぶん迷路に陥っているようである。  また,均衡予算乗数の最大値が1であることは,財政支出が民間需要の拡大効果をもたないことを意味している。通常の乗数では,最初の需要増が所得から派生的に需要増が生み出されてくる。均衡予算乗数の違う点は,派生的な需要増が財政支出の財源調達によって吸収されてしまうことである。財政政策での民間需要拡大効果は同時におこなわれている減税政策によって生じているのである。

   社会的費用と便益との均衡  均衡予算乗数にもとづくと,財政政策の意味として大事になってくるのは,政府がみずから資源を使用するという資源配分機能である。景気対策としての財政出動の判断も,資源配分から見たときの便益と費用によって決定されるべきである。  景気対策の社会的な費用は,それに雇用される資源の機会費用によってはかられる。民間部門で活用されない遊休資源を吸収するならば,その社会的費用はゼロであり,それを活用することによって社会的に有益なものが生み出されるのならば,そのような事業は実行されるべきである。民間部門で活用された資源を利用するのならば,民間部門での生産性が公共事業の社会的費用になる。民間部門であげていた便益以上のものを公共事業によって創出できないとしたら,そうした事業をおこなうことは,社会的に見て損失である。景気対策の最適規模は社会的費用と社会的便益の均等するところで決まる。  ここで,便益の評価のところには大きな問題がある。国民経済計算では,政府の支出金額をそのまま消費あるいは投資に計上するという取り決めとなっている。  理想的には,この部分は政府支出の社会的価値を評価して計上すべきであるが,この評価が実際上困難であることから,現行統計では政府の支出額がそのまま消費あるいは投資に計上される。しかし,政府の支出決定が合理的になされていない場合には,便益と支出額が均等しているという保証はない。  その極端な例として,穴を掘って埋めかえすという,まったく無駄な公共事業を考えよう。均衡予算乗数が「1」の世界では,政府は遊休資源を雇用するので,民間部門の活動には何の変化はない。公共事業は社会的に無駄なことをしているわけだから,社会全体の付加価値は何ら増加していない。  それでも,均衡予算乗数により財政支出分だけ所得が増えるのは,国民経済計算が財政支出を所得に計上しているからである。公共投資の「下支え」という言葉が使われるが,公共投資が非効率な場合には,GDPを「水増し」しているといった方が適切である。  財政政策の便益は,乗数による所得の拡大ではなく,その支出が社会にどれだけ貢献するかによってはかられるべきである。景気対策においても,財政支出の内容に対して,その便益をしっかりと問う必要がある。

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