(本稿は,『日本経済新聞』2009年2月2日朝刊,「経済教室」に掲載された。)

財政支出拡大か 減税か

岩本 康志

・財政政策、経済危機で再び脚光集まる
・「財政支出より減税が有効」との研究も
・過大な期待持たず、国民の理解が不可欠

 経済危機に対処するため、各国が大規模な財政出動に乗り出している。財政政策の役割についてどんな議論が最近なされているのか、震源地の米国を中心に考えたい。
 1月28日に米下院を通過した景気対策法案は、総額8190億ドルのうち3分の2が財政支出、3分の1が減税で構成される。これに先立つ10日には、クリスティーナ・ローマー米大統領経済諮問委員会(CEA)委員長とジャレッド・バーンスタイン副大統領経済顧問が、景気対策によって300万人以上の雇用が生み出され、失業率は対策がない場合にくらべて2ポイント程度低下するという分析を公表した(図を参照)。

 米国では、1980年代以降、経済安定化の役割は金融政策が担うべきだという考え方が支配的になった。財政政策は政治過程を経る必要があり、機動的な運営が難しい。それまでの積極財政で財政赤字が累積し、次第に使いづらくなった面もある。逆に金融政策は、ボルカー、グリーンスパン両米連邦準備理事会(FRB)議長の手腕が評価され、信認が高まった。つまり財政政策は高価で使い勝手が悪く、他の手段が利用できるなら使わないに越したことはないと判断されたのだ。
 ただし、景気悪化時に、税収が減る一方、失業保険などの社会保障支出が増加し、財政収支がおのずと拡張的になるという「財政の自動安定化装置」の役割までが否定されたわけではない。争点になったのは、政府が政策を変更して経済を安定させるという裁量的財政政策の是非である。
 現在の米国では、金融緩和で金利はゼロ近辺にまで低下したが、まだ景気悪化が続いている。不況の長期化が不可避となったため、財政政策の発動が遅れても、その必要性まで損なわれる恐れは少なくなった。いま財政の積極策が必要とオバマ政権が判断したのは、こうした理由がある。

 財政による経済安定化には、財政支出拡大と減税という2つの手段がある。ただし、景気循環への対応は一時的な政策であるべきで、恒久的な政策はそぐわない。レーガン政権下でのサプライサイドに働きかけて経済の効率化を達成しようとする税制改革の一環としての減税策と、今回のような景気刺激を図るための減税策は区別して考える必要がある。
 一時的な支出拡大と減税ではどちらが需要創出効果が大きいのか。経済学では減税の効果は小さいと考えられてきた。長期的な視野をもつ個人は、一時的に所得が増えても即座に消費を拡大せず、長期間で平準化して消費しようと考えるからだ(フリードマンの恒常所得仮説)。逆にいえば所得をすべて消費に回すような個人には、減税分の消費刺激効果があることになる。
 つまり広く国民一般を対象とした減税ではなく、ある階層に的を絞った減税策でないと効果が期待できないというのが一般的な理解だった。今回の対策で対象を絞った減税が含まれているのは、早期に効果を出すのが目的と説明されている。

 一方、減税に比べて効果が大きいとされてきた財政支出の中で柱となってきたのは、裁量的に規模を変更できる公共事業であった。財源の理由で実行が後回しされている大規模事業に資金を向けるのが、理にかなった財政出動の姿とされる。もちろん、その財源はいずれ調達する必要があるので、有益な事業に支出されるべきで、政治過程での利益誘導も排除する必要があるのはいうまでもない。
 有効でない使途が含まれていることが懸念されるとして、今回の景気対策案には米国内でも懐疑的な意見もある一方で、米プリンストン大のポール・クルーグマン教授は、法案の規模では不十分で、財政支出をさらに増やすべきだと主張する。対策を実行しても失業率は7%まで高まり、こうした自然失業率水準より高い状態で放置するのは問題だとみるからだ。

 それでは、財政政策の効果は実際どうなのか。それには景気対策がどのくらい経済に好影響を与えたかという「乗数効果」の大きさを調べる作業が不可欠だが、その正確な把握は実は難しい。政策発動がなかった場合、経済がどうなっていたか実験できないからだ。財政政策で景気が上向かなかったとしても、政策発動がなかったら経済はもっと悪化していたかもしれない。
 そこで、他の要因を除き財政政策だけの効果を注意深く抽出する研究が最近盛んになってきた。その結果は財政支出の乗数(財政乗数)に関しては、過去に計算されていた数値より小さくなったものが多い。例えばオリビエ・ブランシャール国際通貨基金(IMF)調査局長とイタリア・ボッコーニ大のロベルト・ペロッティ教授の有名な研究では、財政乗数は約1だった(減税乗数もほぼ同じ)。財政出動で民間投資が大きく減少する「クラウディングアウト」が起きるためだ。

 一方、ローマーCEA委員長とその夫である米カリフォルニア大バークレー校のデビッド・ローマー教授の研究では、減税乗数は3程度という大きな値になった。こうした研究結果を踏まえ、米ハーバード大のグレゴリー・マンキュー教授は支出拡大より減税の方を薦めている。減税より支出拡大の方が所得を拡大する効果が大きいという定説がなぜ覆るのか、興味深い。
 減税の効果は通常、人々の可処分所得増加を通じて経済全体に波及すると理解されている。マンキュー教授は、税がもたらす経済活動の歪(ゆが)みが減税によって小さくなり資源配分が効率的になるので乗数が大きくなるのでは、と推測する。それが正しいかどうか、今後の研究での解明が待たれるところだ。
 ブランシャール氏とペロッティ教授の研究で二つの乗数が小さくなったのは、金融政策の動きの違いがかかわっているかもしれない。例えばマクロ経済学の教科書では、開放経済下では財政支出は有効ではないとされる(「マンデル=フレミング・モデル」)。これは財政政策の発動によって国内の金利が上昇すると資本流入が起こり、為替レートが切り上がって輸出が減少して景気刺激効果が減殺されてしまうためだ。

 ただこのとき、中央銀行は貨幣供給を固定することが仮定されている。現実には財政出動の効果を妨害するように金融政策が動くと考えるのは不自然だ。為替レートが切り上がらないように金融を緩和すれば、所得が上昇して消費も増え、結局、財政政策でも乗数効果は働く。財政政策の効果だけをとらえようとすると、結果的に金融政策が独立に動くことになり、財政政策の効果が小さく出てしまう。逆に、先のローマー夫人とバーンスタイン氏による別の分析では、金融緩和が続き金利が上昇しない前提で、財政乗数は約1.5、減税乗数は約1と想定している。
 財政政策の影響については、実証的な検証だけでなく、理論的な働きの解明もさらに必要だ。米シカゴ大のロバート・ルーカス教授が、経済主体が将来の政策を予想して行動することが、政策の効果に重要な影響を与えることを指摘して以来、将来の期待の役割を重視する動学的な分析が発展してきた。こうした研究の成果は金融政策の立案で生かされるようになったが、財政支出の拡大が消費を増加させるという経験的事実はうまく説明できていない。裁量的財政政策が使われる機会が少なく、財政政策の研究は進んでいなかったが、現在の経験を踏まえて、今後の研究に進展があるかもしれない。

 財政出動の是非に関して学者の意見が分かれるのは、費用と効果の評価に違いがあるからだ。論争が深まって賢明な政策が選択されれば、国民が利益を享受できる。
 一方で、政治過程を経る必要がある財政出動には、国民の納得が不可欠になる。この点では決して楽観できない。景気対策にもかかわらず、今年は米景気の悪化が続き、財政赤字も拡大するだろう。対策をとらない場合はもっと経済が悪化したという理解は国民に共有されづらい。巨額の景気対策でも一段の失業率悪化を食い止めるのが精いっぱいで、自然失業率の水準まで経済が戻るには自律的回復を待つ以外にない。景気対策への過大な期待が失望に変われば、財政政策は無効だと決めつけられる恐れもある。オバマ政権が政策の意図を的確に国民に伝えることが大切だ。


(上記事に関する日経ネットPLUS掲載原稿)

 米オバマ政権での景気対策法案が議会での議論を経て,間もなく成立するところです。大規模な財政政策をめぐっては,第一級の経済学者もメディア,ウェブを介して積極的に発言し,論争がおこなわれています。記事で紹介したものと重なりますが,主な意見を整理してみると,
(1) 財政政策発動そのものに慎重な見解
 利下げ以外の金融政策の手段でまだ対応できる
 財政支出の決定は景気とは関係なくされるべき
(2) 規模が過大だとする見解
 使途が不適当
(3) 規模が過小だとする見解
 GDPギャップを埋めるのに不十分
となるでしょうか。
 支出拡大か減税のどちらが望ましいかについても論争が起こっています。支出拡大は「大きな政府」,減税は「小さな政府」の方向性をもつので,党派性を帯びた意見対立ともなり,議会や世論での重要な争点となるでしょう。乗数効果の大きさで見ればすでに教科書でも決着のついた話でしたが,記事でも紹介したように,最近の研究は減税乗数の方が大きいという報告がされていると,マンキュー・ハーバード大教授が興味深い指摘をしています。しかし,最近の研究の評価がまだ定まっていませんし,理論との整合性がつかないうちに,減税がより有効と主張するのは尚早だと思います。
 紙数の制約で,米国以外の議論に触れる機会がありませんでした。金融政策と財政政策の役割には各国で濃淡があり,米国での考え方(金融が主役,財政は自動安定化装置)は財政政策の役割を一番小さく見ているといえます(詳しくは,齊藤誠一橋大教授と筆者の「財政・金融,主従関係断て」,『日本経済新聞』(経済教室),2000年7月31日をご覧ください)。ユーロ圏では一国の判断で金融政策が実行できないので,安定化政策としての財政政策の役割が増しているのではないかという議論がされるようになりました。日本は,景気が悪くなると財政が前のめりで拡張に向かい,金融政策は後からしぶしぶついてくる形でしょうか。
 また,わが国が教訓として学ぶべき点もいくつか指摘できると思います。
(1) オバマ政権の経済チームが経済学者のニーズを満たす形で政策効果の推計を示して,議論の共通の土台が提供されていることが,論争を充実させる大きな助けになっています。わが国でも,対策を打たない場合の経済の行方を示し,対策の必要性と効果の根拠をきちんと示すことが必要でしょう。
(2) 一時的な政策と恒久的な政策を区別する必要があります。景気対策は一時的な政策です。「バラマキするよりは医療や福祉に回せ」というのはうなずける面がありますが,医療・福祉の充実が恒久的な支出増になるものならば,それは景気対策ではなく,財政の構造的な問題として取り組むべきです。減税については,一時的な投資減税は景気対策の候補と考えられますが,恒久的な法人税減税は違います。
(3) オバマ政権の案は,財政政策にラグがあることを認識して,早期に実現できる減税と少し時間を要する支出拡大を組み合わせています。「スピードが命」といって始まった麻生政権の経済対策ですが,このままでは定額給付金の給付よりもオバマ政権の減税の実施が先に実現するような,笑えない事態が起こるかもしれません。
(4) 財政乗数の通常の議論は,支出が変化することで経済の均衡が変化するものと考えています。これとは違う大きな財政政策の効果を考えて,財政政策で景気浮揚を期待する人がいます。これは,経済が停滞する「悪い均衡」と,活性化している「良い均衡」の2つの状態があり,いったん悪い均衡に陥った経済が財政政策によって良い均衡に移行する現象を考えるものです。しかし,このような乗数効果が現実に生じる可能性への支持は少ないと思われます。
 景気対策に対する経済学者の発信はきわめて多数になるので,記事では思い切ってクルーグマン・プリンストン大教授とマンキュー・ハーバード大教授のものに絞って言及しました。対照的な意見をもつ両教授は最近,ブログで(意見もリンクも)「張り合っています」。
 クルーグマン教授の主張ついては,
Paul Krugman (2009), “The Obama Gap,” New York Times, January 9.
Paul Krugman (2009), “Ideas for Obama,” New York Times, January 12.
Paul Krugman (2009), “Stimulus Arithmetic (Wonkish but Important),” http://krugman.blogs.nytimes.com/2009/01/06/stimulus-arithmetic-wonkish-but-important/
また,クルーグマン教授のブログ「The Conscience of a Liberal」(http://krugman.blogs.nytimes.com/)には,他にも関係する記事が多数掲載されています。
 マンキュー教授の主張については,
N. Gregory Mankiw (2009), “Is Government Spending Too Easy an Answer?” New York Times, January 11.
N. Gregory Mankiw (2008), “Spending and Tax Multipliers” http://gregmankiw.blogspot.com/2008/12/spending-and-tax-multipliers.html
また,マンキュー教授のブログ「Greg Mankiw’s Blog」(http://gregmankiw.blogspot.com/)には,他にも関係する記事が多数掲載されています。

 その他の,記事で紹介した研究の原典は以下の通りです。
Olivier Blanchard and Roberto Perotti (2002), “An Empirical Characterization of the Dynamic Effects of Changes in Government Spending and Taxes on Output,” Quarterly Journal of Economics, Vol. 117, Issue 4, November, pp. 1329-1368.
Robert Lucas (1976), “Economic Policy Evaluation: A Critique,” Carnegie-Rochester Conference Series of Public Policy, No. 1, pp. 19-46.
Christina Romer and David H. Romer (2008), “The Macroeconomic Effects of Tax Cahnges: Estimates Based on a New Measure of Fiscal Shocks,” mimeo.


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