大学院での経済学の学び方

岩本 康志


 この文書は,大学院での経済学教育に関心がある読者(大学院生である,大学院入学を考えている,大学院生であった,単に好奇心がある,等)を対象に,どのようにして大学院での経済学のカリキュラムが組まれ,教育がおこなわれているか,を説明したものです。
 大学院でのカリキュラムは,それぞれの大学院が特色を出して編成していますが,ある程度は国際的に標準的だと考えられ る部分をもっています。文書化された国際標準はありませんが,この文書では,私が標準的と考えるものを説明しています。
 大学院での学習は決して平坦なものではありません。志なかばで中断を余儀なくされる学生もいます。ここでは,できるだ け多くの学生が大学院での学習を成功させるように,正念場となるポイントを示しています。
 

大学での授業
 カリキュラムの説明に進む前にまず,大学での授業時間割について,頭に入れておいてください。以下では,2学期制をとる大学を念頭に置いています。この 場合,1学期が約15週間で,標準的な1科目が週3時間の講義となります。1学期に4科目を履修するのが,標準的です。

   1年

 1年は,どの分野を専攻するにせよ学んでおかなければならない基礎科目を履修します。これらは,コアコースと呼ばれ, 必修科目(合格しなければ退学)に指定されています。コアコースの内容は大学によって違いますが,
 ミクロ経済学 2科目
 マクロ経済学 2科目
 統計学・計量経済学 各1科目
が含まれることが普通です。

[第1の危機]

 学部段階で経済学を学習していた多くの学生が戸惑うのは,大学院の授業は数学的な議論が中心となっていることです。学 部での経済学の授業は,できるだけ広い学生を対象にしたいために,数学的議論をできるだけ押さえるように配慮されています。しかし,現代の経済分析は数学 的議論を積極的に使用しており,専門的研究者の養成を念頭に置く大学院での授業では,学生はそうした数学的議論を理解する能力をもつことを前提にしていま す。
 「経済学では数学が必要」ということを認識せずに大学院へ入学してしまった学生は悲劇です。そのため,大学院では,入 学選抜時に志望学生の数学の学力に注意を払い,また,案内資料等で,数学の必要性を学生に周知させるような努力をしています。

[第1の危機へのアドバイス]

 経済学に数学が必要なのは,物理学に数学が必要なのと同じだと理解してください。数学の理解なしで,経済学の専門的研 究者となることはありません。学部学生のときに大学院進学の可能性を考えているのなら,必要な数学の科目を早めに履修しておくことが重要です。
 
経済学に必要な数学
 大学院進学のために,学部でどれだけの数学を学んでおかなければならないか,を説明します。学部1年から4年までの学期を順に,1学期から8学期までと 呼ぶことにします。
 自然科学系の学生のためには,1〜4学期に,微積分・線形代数の4科目を各学期1科目ずつ履修するシーケンス(sequence)が用意されるのが標準 的です。このシーケンスは各自然科学の専門科目や上級の数学の科目を履修するための前提条件となります。
 社会科学系・生命科学系の学生は,1〜2学期に,微積分・線形代数の2科目を各学期1科目ずつ履修するシーケンスが用意されるのが標準的です。自然科学 系のコースよりも内容が限定されます。このシーケンスを選択すると,上級の数学の科目を履修することは原則認められません。
 なお,以上は高校で微積分を学習した学生を前提にしており,微積分を学習していない場合には,上のシーケンスを履修する前に,もう1科目の微積分の履修 が必要となります。
 数理経済学と呼ばれる分野では,より進んだ数学の知識を必要としますが,経済学と関連の深い科目としては,微積分をより厳密に取り扱い,集合・位相の概 念を使用する「解析」の科目(数学能力の高い学生のために,3〜4学期の科目として,微積分・線形代数の講義のなかに同じ内容を含む科目が提供されること もあります)や,システムの動学的振る舞いを研究する「力学系」の科目があります。
 経済学で要求される数学の要求水準をまとめると,以下のようになります。
学部
 最低 微積分・線形代数の2科目(1年間)の履修
 推奨 微積分・線形代数の4科目(2年間)と経済数学の1科目の履修
大学院(入学するまでに)
 最低 微積分・線形代数の2科目(1年間)と経済数学の1科目の履修
 推奨 微積分・線形代数の4科目(2年間),
     解析の2科目,力学系の1科目,経済数学の1科目の履修

経済学に必要な統計学
 数学とならんで,統計学の履修も要求されます。学部では,2種類の統計学の入門コースが提供されているのが普通です。
 1科目のコース(数学の履修を前提しない)。主として,研究の手法として統計学が必要な学生を対象としています。
 確率・統計の2科目のシーケンス(微積分・線形代数の履修を前提とする)。1科目のコースよりも,より数学的な議論を取り入れ,広い内容をカバーしま す。上級の統計学の科目を履修するための前提となります。
 学部の「計量経済学」の科目を履修するには,どちらかの入門コースの履修が前提となります。
 経済学で要求される統計学の要求水準をまとめると,以下のようになります。
学部
 最低 統計学の1科目の履修
 推奨 統計学の1科目と計量経済学の1科目の履修
大学院(入学するまで)
 最低 統計学の1科目の履修
 推奨 確率・統計の各1科目と計量経済学の1科目の履修

経済学に必要な語学
 戦後に米国が経済学の主流になったことから,必要言語(working language)は英語となりました。日本経済を研究する場合には,日本語の知識も必要です。

学部で学ぶ経済学
 学部で経済学を専攻することは,大学院で経済学を学ぶための必要条件とはされていません。しかし,学部で経済学を専攻するときの必要条件となる。入門2 科目・中級2科目の経済学科目を履修しておくことが推奨されます。

   2年

 大学院の2年では,経済学の各分野の授業科目から,各自の興味に合わせて,受講科目を選択することになります。これは フィールドと呼ばれ,各大学は10前後のフィールドを構成することが普通です。どのようなフィールドを構成するかは,各大学の教官に依存していますが,国 際経済学,公共経済学,労働経済学などは,普通の大学では提供されていると考えるのが常識です。また,ミクロ経済学,マクロ経済学,計量経済学の進んだ科 目もフィールドとなります。
 1つのフィールドを学習するには,1年間で2科目のシーケンスを履修することが必要です。2〜3のフィールドを良好な 成績で修了することを,3年への進級の前提とすることが普通です。

[2年でのアドバイス]

 1年で経済学に共通する知識の教育を受けた後,2年で次第に学生の興味と専門が固まっていくことになります。この段階 で,非常に狭い分野に関心を絞ってしまい,それ以外の領域にはまったく関心をもたなくなってしまう学生がいます。複数のフィールドを学習させるのは,そう した「専門病」に陥ることを防ぐ意図があります。経済学の各分野は,それぞれ独立した研究領域ではなく,経済学に共通する分析手法を通してお互いに関連し ています。したがって,他の分野を知らないまま,ある特定分野に集中していくことは,結局その分野についても深く理解していないことになります。研究者生 活には研究者間の付き合いも欠かせませんが,他の分野に何の関心もないのでは付き合いも味気のないものになります。また,フィールドの履修は,その分野を 大学で授業するライセンスの役割も果たしますので,雇う側から見ると,多くの授業が担当可能である学生が魅力的に見えます。
 

   3年目以降

 大学院の1・2年はコースワークと呼ばれ,1学期4科目,合計16科目の授業を履修し,経済学の知識を習得することが 目的ですが,3年目以降は,自分で研究をおこない,論文を書くことが目的となります。同時に,授業にかわって,分野別に開催されているワークショップに参 加して,先端の研究動向に触れることになります。
 3年目では,まず,どのような博士論文を書きたいのか,という研究計画を指導教官に示すか,ワークショップで発表する かして,指導教官または指導委員会の承認を得ます。論文執筆中にも,指導教官と密接に連絡をとりあって,助言を受けるようにします。博士論文の完成には個 人差がありますが,中間値はコースワーク終了後2〜3年です。
 博士論文の執筆では,まず就職市場に出るために,核となる論文(Job paper)を仕上げます。博士修了者の就職市場では,求人する大学の公募による選考が中心になります。学生は求人に応募し,興味を示してくれた大学のイ ンタビューを受けたり,セミナーをしたりして,その能力を評価された上で,採否が決定されます。

[第2の危機]

 1・2年は勉強熱心で好成績だった学生が,3年目以降に何を研究していいのかわからないまま,ずるずると時間を過ごし ていることがあります。受身の形で知識を習得することは得意だったのですが,新しいものを自分で創造していくことがうまくできない状態に陥ってしまうので す。研究者に要求されるのは独創性を発揮する能力であり,1・2年に一種の詰め込み教育がおこなわれるのは,自分の研究をはじめる土台となる基礎知識を身 に付けさせようとしているのですが,知識の習得が自己目的化してしまう学生が出てきます。

[第2の危機へのアドバイス]

 この危機を乗り越えるには,1・2年を自分の目的意識をしっかりもって過ごすことが重要です。以下のことを肝に銘じて ください。研究とは,未解決の問題があり,それに解決を与えることです。経済学とは,経済の問題を研究することです。問題を解決するということは,教科書 の練習問題を解くという意味ではありません。そもそも,どのような問題を設定するのか,ということが大変に重要なのです。1・2年の授業においては,さま ざまな経済の問題が提示されるはずです。そのときに,その問題がどのように重要なのか,なぜその問題がとりあげられたのか(多数の問題のなかから,どのよ うにして重要な問題に絞り込むのか),を自分で考えることが必要です。そして,どのような解答を与えるのか,をまず自分で考えるべきです。その後に,授業 や教科書から,経済学者がどのようにその問題に取り組んだか,そしてどのような解答が与えられたか,あるいは未解決のまま残されているか,を学ぶようにし ます。この自分で考えるという部分が欠落すると,教科書を暗記し,練習問題を黙々と解くという,単なる高等知識の消費者に終わってしまいます。研究者にな ることは,生産者になるということです。
 もうひとつ陥りやすい罠があります。経済学では,モデル分析が重視されます。数学的に定式化されることによって,研究 者間の意思疎通が円滑になり,文章による論証で犯してしまう間違いを防ぐこともできます。良いモデルを開発することは,経済学者の重要な仕事になります。 しかし,モデルの開発は経済学研究の手段であって,目的ではありません。授業でのモデルの習得に追われるうちに,モデル分析自体が自己目的化してしまい, 分析すべき現実への問題意識が希薄になっていく学生が出てきます。モデル分析の重要性は,それが重要な経済問題と密接な関わりをもつかどうかによって決ま ります(手段よりも目的が大事)。理論モデルの改良を主たる仕事とする経済学者はいますが,その場合でも,優秀な研究者とそうでない研究者との違いは,ど のように現実への問題意識をもっているかで決まります。
 数学ができて,モデルができて,そこから経済学が始まります。

[自信と不安]

 まだ研究者としてはよちよち歩きですが,この時期あたりから生活が充実してくるのを感じる学生が多いと思います。大学 院進学の目的を達成しようとする手ごたえが生まれるのと,大学院入学当初は雲の上の存在であった教授陣のレベルに,自分が次第に近づいていっていることが 感じられます。
 同時に,自分の論文がどのように評価されるのだろうか,という不安も覚える時期です。

[アドバイス]

 就職活動の過程で,学生は,論文によって自分の商品価値が評価される業界に身をおいていることを実感します。いい大学 に就職するのが当然の希望ですが,求職者間の競争や,自分の専門分野と各大学の欠員状況の兼ね合いもあり,努力と実力だけでなく,運も左右することも否め ません。かりに不本意な結果に終わったとしても,そこが研究者生活の到着点ではありません。どの大学でも,優秀な人材を確保したい,という意識はつねに もっているはずです。その後も努力を続けて,いい研究を発表していけば,きっと誰かが見ていてくれます。
 大学院を修了しても,まだ研究者の出発点に立ったにすぎません。その後も向上心をもって,自身の研究のために,そして 経済学の発展のためにがんばってください。

Last Updated: 10/26/00, Yasushi Iwamoto